数年前、ある講演でソーシャルワーカーの方と話す機会があった。話の流れで彼は仕事をする上での信念を語り始めた。
「僕は人の気持ちに寄り添うことを大事にしています」
「なるほど」と合点がいった。謎が氷解した。
彼は「とても自分の話を聞いてくれた」と言っていた人が実は陰で「あの人は全然私の話を聞いてくれなかった」と不満を漏らしていたのを耳にし、ショックを受けたという。
ところが、また別の人は彼の前で終始気乗りしない態度だったのに、後日「あの人は私の話をとても聞いてくれた」と周囲に話していたと知った。違い過ぎる評価にとても混乱したという。自分としては同じように努めているのに、何が評価を分けるのかわからないからだ。
そこまでを話し終えて彼が自身の信条として語ったのが冒頭の「人の気持ちに寄り添うことを大事にしています」だった。
それを聞いて私の疑問が解けた。「人の気持ちに寄り添うことを大事にしている」から評価が異なるのだ。
寄り添うことの何が問題なのだろうと訝しく思う人もいるだろう。とりわけ共感が重視されているこの時代の風潮においては、困りごとを抱えている人であれば、寄り添い理解することが大切だと思われている。
だがしかし、困難さを生きるという人から見える景色に目を移すと、寄り添うことの意味が変わってくる。
いますぐに果たされることのない期待を抱え、苦しんでいる。その気持ちを理解されたい。この暮らしがもたらす重さ、ひしがれるような思いで生きていることについて微細にわかって欲しい。自分に寄り添って欲しい。強烈な飢餓感があるのは間違いない。だからこそ寄り添われるわけにはいかないのだ。
困難な状態に寄り添われてしまっては、自分を見舞う苦渋に満ちた生活は変わらない。自分の話は理解されたいが、受け止められてしまっては自身の変化する可能性が奪われてしまう。だから寄り添われるわけにはいかない。
他者という存在は私とは相入れない。私はあなたではないのだから。相入れない他者を理解する上で共感は他者性の深みのどの層まで届くだろうかと言えば、表面に過ぎない。
人がコミュニケーションという他者との関わりの中で望むものは、共感すらできないところにある自身の中の他者との出会いだ。私の知らない私。そこに自身の可能性を感じる。それは本人が口にする言葉の群れには姿を容易に見せない。自覚しないところに潜んでいる。
言葉を介した対話の言葉だけに注目していては、そこまで潜ることはできない。
「寄り添う」とは何を指すのか、確かに、何らかの定義がないので、混乱するのかもしれません。そのことに知り合いの問いかけで気づかせていただきました。ちょっと考えてみました。
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ぼくのイメージですが
・支援しようとする当事者はあくまで他者なので、その感情の細部まではわからない、ということを前提に
・その人の位置から見える風景を見てみる。
・その感情を内在的にわかろうとする。
・その当事者を覆う抑圧や構造的暴力を理解できるように努める。
・抑圧や構造的暴力と対峙し、そこに立ち向かう方法を考える。
・対峙し、そこに立ち向かうのは当事者だけではない、また支援者と当事者だけでもないということを理解できるようにする。
・それらのすべてをできるだけ当事者との共同作業で行う。
・また、支援者側も孤立しないことが必要
・とはいうものの、考え、決めるのは当事者自身であることを忘れない。
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いま、思いついたことをざっくり書いただけで、穴だらけかもしれませんが、そんなことを考えたのでした。きっかけをありがとうございます。
「困難な状態に寄り添われてしまっては、自分を見舞う苦渋に満ちた生活は変わらない。自分の話は理解されたいが、受け止められてしまっては自身の変化する可能性が奪われてしまう」とありますが、私はそうは思いません。支援にかかわるものとして、困難な状況であるという気持ちに寄り添って、当事者がその状況をどう変化させるのか、その道筋を探す手伝いをすることが大事なのではないかと思うのです。