街を歩いていたらフランス人に道案内を請われた。フランス語は自己紹介くらいしかできないので、拙い英語でなんとか応対していた。こういうときは、明らかに日本語を話すのとは違う自分が立ち現れる。
たとえば普段はしないはずの肩をすくめてみせたり、気さくに「昔、パリに行ったことがあるよ。その時の思い出といえば、やたらとクロワッサンが美味しかったことだね」と普段なら言わないようなありきたりなことを話したり。
相手が「谷崎潤一郎が好きだ」と言うので「『台所太平記』はおもしろいよ。読んだ?」と返事しようとしたけれど、『台所太平記』をなんと訳したらいいかわからないから、「いいよね」なんて適当な調子の返事で済ました。演技しているわけでもない。素でもない。ただ自分というものの異なる表情を久方ぶりに見た気がした。
若い時分、1ヶ月ほど英語圏で暮らしたことはある。そのときも日本にいるのとは違う自分が現れた。振り返ればあくまで慣習や風俗の違いのうわべをなぞったことで起きた反応だった。多少のカルチャーギャップを感じたものの、異なる相貌の自身と出会うまでには至らなかった。
人々がどのような価値観や信条で生きているのか。本当のところはわからないままだった。同じように洋服も着ているし、洋楽も聞くし、映画や作家について多少なりとも知識がある。それがかえって文化の本質的な違いよりは、共通しているところに目を向けさせたのだと思う。知っているところを探す中で異文化を理解しようとしたのだろう。
これがムラブリ語やドゴン諸語を話す地域であればどうだったろう。メディアで接する機会も少ない上に馴染みがない。きっと風習や所作などの違いに直面せざるを得ないだろうから、必然的に違いに注目したのではないか。その地で暮らす人たちとの交わりの中で、自分とはまるで異なる考えで生きている他者がいることをありありと感じたはずだ。
外部を知れば必ずしも多様性が身につくとは限らない。新しいことを知ったという体験が目録に加わるだけの、いわば観光のような過ごし方に終始することもあるだろう。やはり自分が変わるという体験があって初めて多様性は養われる。
ここでの「自分が変わる」とは、「陽気になる」とか「引っ込み思案だったのに急に自己主張をし始める」とか、さっきの私のフランス人への対応のような傍目には「キャラが変わる」としか見えない、わかりやすい変化だけではない。自分の中に異なる文化や考え、それを生きる人たちが住まうだけの余地が広がっていく。それが自身のうちに他者性を宿すことになり、他者性が多いほどに多様さが身に付いていく。
先日、作家の平野啓一郎氏の『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を読んだ。ここまで述べてきたことは、本著が提唱する「分人」と重なるだろう。
分人とは人間の単位を個人から転換することを目的として提唱されている。個人という概念は現代の生活に合わないのではないか。「たった一つの本当の自分」という発想は人間関係を窮屈にさせ、要らぬアインデンティの悩みを生じさせているのではないか。そういった疑問から提示されるのが分人だ。
分人は「本当の自分」という拘束から人を解き放つ。複雑なコミュニケーションを必須とする時代を生き抜く上で分人は新たな思想になり得るというものだ。
本著において目を引くのは身体の扱いだ。氏はこう記す。一人の人間の身体は「殺してバラバラにしない限り、分けることができない」。では人格はどうか。旧来は分けられないと思われていた。
だが、氏は「人間を『分けられる』存在と見なす」という。人付き合いの数だけ自分は変わる。つまり人間は「分けられる」のだ、と。
私はここが肝だと思う。「分けられる」のか。それとも「分かれている」のか。わずかな字句の違いがもたらす隔たりは、果てしなく大きい。
人付き合いによって自分を「分けられる」としても、氏の述べるところは、私がフランス人の彼に対してとった態度と同様に技巧的というのではなく、自然と相手との関係性によって導かれるものだという。
とは言え、「人間を『分けられる』存在と見なす」という前提があるからには、常に「本当の自分」という発想がもたらすストレスの緩和というコンセプトありきがどこかで意識されているだろう。そういう意味では、自然に見えて実はより自然に見える技巧であるとは言える。
それが悪いというのではない。「他人や社会からどう見られるか」といった情報と付き合うことをコミュニケーションだと思っている現代人にとって、「たったひとつの本当の自分など存在しない」という概念を打ち出す分人化は、緊張を緩める上でとても効果があるはずだ。
自分という存在を人格の側面だけで捉えれば、分人化は分人主義となり、思想となって人を牽引することになるだろう。けれども対人関係によって変わるのは、果たして人格なのだろうか。私は身体が変わるのだと思う。
たとえば英語で話すときは明らかに息遣いが変わる。気があがって、ゼスチャーも胸の前で指さしたり、手を振ったりする。決して腹から声を出すという風にはならずに胸から喉にかけての発声だ。そうなると分人よりは分身が適切ではないかと思う。
身体は「殺してバラバラにしない限り、分けることができない」。翻って言えば、バラバラにすれば分けることができる。それが生きている人間では得られないはずの解剖学の知見だ。いつしか私たちはバラバラの身体像を自分だと思うようになっている。死体をものとして単純化して見て、そこで得られた知見を生きている身体に当てはめるようになった。ものという物理的な層の身体が自分だと信じるようになったと言えるだろう。
身体にはいくつもの層がある。すでに分かれていることに気づけるかどうかが、この現実を生きる上でのままならなさを捉えるにあたって重要だ。そうして幾層にも分かれている身体のありようは、現代人のような社会と個人とのあいだで葛藤する存在として分類できるほど単純でもない。ひょっとしたら「本当の自分」という悩みも世間体と本来の自分というものが両極にあって、それを行き来するしかないと思っているから生じるのではないか。
身分が明確にあった近代以前では、むしろ人間というものは分けるも何も「分かれている」のが当たり前だったのではないか。
木下藤吉郎が羽柴秀吉、豊臣秀吉になったりと、同じ人間でありながら氏、姓、名字、仮名は異なる。また「五代目市川團十郎」と言ったような襲名が当然のようにあった。個人や人格という概念がない時代に、その現象はどのように捉えられていたかと言えば、少なくとも「そういうものだ」といった「分かれている」が理解の大前提だったのではないか。
個人の同一性を強く持たなければならない。分人という概念はこれを乗り越えるために作られた。しかしながら意識的な分人化の試みは、どこまでいっても「本当の自分でなければ満たされることはない」という概念と対をなしているのであれば、決してそこから自由にはなれないだろう。
内と外について考えています。
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