私たちが何気なく行っている世界を知るときのあり方。何かを手に取り、何かを見て、認識し、把握する。私という身体が行為する。私という主体を通して世界を知り、働きかける。この知覚のモデルは私というものに私が統合されるというモデルを前提にしている。これはもう実際の人間を理解する上で古いのではないか。
物心ついた頃から自分の身体が、特に手が自分の手としてままならない行為をしがちだった。時には自分の手が頬を打つのを必死に止めるといったように、コントめいたことをしていた。
行為の主体が単体であるという言説は私の現実には合わなかった。いつもいろんな声が聞こえた。
人間の人格は、私たち自身と見なされはしたが、その内部に複数の人格を含んでいるとは思われていなかった。もし、それが明らかになれば「解離性同一性障害」と名付けられ、社会に穏当な形で再配置されただろう。
10数年前、中医学の施術家に会った。古典的な作法に則り、彼は竹芯香に火をつける。室内に窓はあるが閉め切られていた。
風は吹いていない。線香の火がふと消えた。施術家は「珍しい」と漏らすと、篆書体で陰と陽と書かれた、半円形のふたつの賽子をふった。奇数回ふって陰陽の目が出なければ施術は行わないのだという。一度で目は出た。
舌診の次いで眼診を行う。彼は私の下瞼を押さえつつ目を覗き込むとこう告げた。
「嗚呼。あなた、よく気が狂わなかったね。十三人いるよ。武術をやっていると聞いたけれど、やめてはいけない。やめたらおかしくなるよ」
この現実世界をそっくり現実だと思っている感性からすれば、狐狸の輩の戯言に聞こえるだろう。けれども私は得心した。
ずっと自分というものが単体とは思えないで生きてきたからだ。いつも経験されているのは、私という意識に統合されない私が複数いて、一貫性のある振る舞いができずに、この現実と呼ばれる世界と齟齬がたびたび生まれた。
私は常に私ではないものとして存在し、ままならない、まとまらない、ばらばらでいる。それが私にとっての通常である。
考えてみれば、髪の毛も爪も臓器も手足も成長の速度も違う。それぞれの思うところも違うだろう。それぞれの言語があるはずで、意識で理解できるはずもない。
その声ならざる声に耳を傾けることを精神疾患と名付けるとしたら、私という身体の主体というコンセプトと、それが他者で客体である。これらを統合の逸脱としてしか見なせないから生じたに過ぎないのではないか。
納得する部分ありました。。ありがとうございます(-o-)/