インタビューセッションについて
昨日、<ある日のインタビューセッション>というタイトルの動画が僕のチャンネルにあげられました。
インタビューセッションという語を初めて聞いた方もいると思うので、今日はこれについて説明したいと思います。
僕はこれまで学者や作家、スポーツ選手、ヤクザ、僧侶、芸能人、政治家といった人たちにインタビューしてきました。たぶん数は1000人を超えています。
インタビューでは通常だと事前に資料を読み、情報を集めて臨みます。けれども4年前から始めたインタビューセッションはそうではなく、その場になって初めて知る人を相手に話を聞いています。
セッションと名付けている通り即興です。相手について何も知らない、わからない状況からスタートします。わりと冷や汗をかきます。昔の僕を知っている人なら「信じられない」と言うことでしょう。それくらい人と話すのが困難でした。
最近「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というアニメを見たのです。主人公は元少年兵で、武器として育てられた彼女は“心”がわかりません。復員後、彼女は郵便社で働くのですが、心がわからないがゆえの言葉と思いがズレてしまう。そのすれ違いの描写が昔の自分を見ているようでした。
僕は今はインタビュアーとして活動していますが、心がわからなくて手探りで言葉を扱ってきた期間がかなり長い。そのことについては連載している「失われた親指を求めて」で追々書いていくつもりです。
言葉が話せない、書けない時間が長かったせいで、思いを言葉にしようとも、うまくできない人の思いがどこからやって来るのか? に注目できるようになりました。
多くの人は、言葉は「何かを伝えるため」に用いていると思っています。そのため「相手の言っていることは何だろうか?」という聞き方で理解しようとします。意味を捕まえようとする。
でも、僕は言っていることではなく、「言わんとしていることは何か?」 に注視しています。それはまだ言葉になっていない、言葉とすれ違っている思いや想い、憶いだったりします。
胸の中のわだかまりを振り絞るようにして話そうとしても言葉にならない。苦しい。自分でも何を言いたいのか。言っているのかわからない。だから「こんなことは意味がない」と思ってしまいがちです。
でも違うのだと思います。わだかまりが意味にすぐさまなるはずもないのは、苦しいからです。苦しみは苦悶という音として理解するしかない。悶えるという身のよじりが立てる音、歯ぎしり、地団駄という意味になりようのない音として聴くしかない。考えてみれば音楽を聴くのに意味を理解しようとして聴きはしないはずです。それと同じです。
ただ聞くという行為には、解決を目指すだとか良し悪しだとか正しいかどうかといった判断が入り込む隙間はありません。
インタビューセッションの基本は「ジャッジしない」です。セッションを申し込まれた方は、その人の抱えている悩みや問題を話される場合が多い。
僕は悩みや問題の解決に向かうことは聞きません。ですが、受けられた方からは「悩みや問題が気にならなくなった」という感想をしばしば聞きます。僕はそこに何がしかその人が自身に誇りを持ち始めている気配を感じます。
おそらく問題というものが実は「自分で自分をジャッジしていたこと」に始まっていたからではないかと思います。自分に善悪、正誤をつけて「自分は無力だ」と決めつける前に、自分に対して十分な敬意を払う。それがあれば自身との対話もしやすい。インタビューセッションはそのための少しのお手伝いだと思っています。
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