失われた親指を求めて vol.8
「意識する」がもたらすこと
つい10年前まで僕は人と目を合わせて話すことや大勢の人を前に話なんてできやしなかった。いまみたいにワークショップだとか講演だとかやろうと考えもしなかった。
耳目を集める場に出くわすと俯いたまま黙っていることが多かったし、かと思えば、口を開かざるを得ない状況になると、さぞ寡黙さにふさわしい、訥々とした語りになるかと思いきや全然そうならない。やたらと早口で喋ってしまって、「この人、大丈夫かな?」といった、なんだか不穏な空気にさせる。どれもこれも自意識過剰というやつがもたらしていた。
胸焼けを誘う自意識過剰
この「自意識過剰」というのは、字面からしてお腹いっぱいで胸やけを起こさせる。意識過剰で物足りずそこに「自」まで付けてしまうのだから。
人が自分のことをどう思っているのか気になって仕方ない。いや「どう思っているのか」と言えば、好ましい印象を持っているとは到底思えなくて、「自分のことを受け入れてくれない(そうに決まっている)」といったネガティブな評価をするものだと思い込んでいる。他人の目を意識してしまってぎこちなくなる一方で、こう思ってもいた。
「他人は自分のことなんてそんなに意識していないはずだし(だって自分は大したことを言えるわけではないのだから)、だから気にしなくていい。そう自分に言い聞かせても、『気にしなくていい』というのをめちゃくちゃ意識してしまう」
意識してぎこちなくなった状態をなんとか意識的にほぐそうとする。緊張しないでおこうとすればするほど、意識が自らの手足を縛る働きをしてしまう。余計に緊張して手にすごく汗をかく。
自意識について意識しだすと、ちょうど合わせ鏡がものすごい数の自分の姿を次々に映し込むように、追いかけても追いつけないような感覚に陥らせる。
自意識過剰とは、ラーメン全部のせみたいなもの
そもそも自意識という代物が既に過剰なのだ。だから自意識過剰というのは屋上屋を架すことでしかない。ショートケーキの上に大福が乗っかっているというか。ラーメンでいう全部のせみたいなもので、過剰な上に余剰が加わる。何せtoo muchなのだ。
この過剰さに一役買っているのが、前回の連載で書いた“時間”だ。「いまここ」にいられない、人間特有の問題が現れてしまっている。
どういうことかと言えば、たとえば「他人の視線を意識してしまう」とあなたが思うとする。そのとき自分が緊張しているのは、まさに「いまここ」の問題だと捉えてしまうだろう。
けれども、よくよく考えると「みんながこちらを見ている」とか「あの人は私のことをよく思っていないのではないか?」といったことは全て想定だ。これから起こるかもしれない事柄についての予測、想像された未来であって、いまここの現実ではまったくない。
だけど、意識が絡むと人は想定にリアリティを与えてしまい、「いまここ」の出来事のように錯覚してしまう。まだ起きてもいない先のことをいまに持ち込むから時間にズレが起きる。だから何をするかと言うと、「意識的に意識しないようにする」ことを始めてしまう。これによってズレた時間の帳尻を合わせようとする。
しないようにするは可能か?
ところで、「しないようにする」というのは人間特有のコンセプトじゃないだろうか。考えてみて欲しいのだけれど、息をしないように吸うことはできるだろうか。落ちたペンを拾わないように拾うことはできるだろうか。できるはずがない。
実際に僕らにできるのは、息をするかしないか。手を伸ばすか伸ばさないか。どちらかしかない。どちらもただ行為することだけが必要で、「しない」と「する」の両立は不可能だ。だけど、おもしろいことに頭の中においては「しないようにする」状態とその成り行きを想像することが可能だ。
たとえば、あなたはとても怒りっぽい人で、そのことに日頃から嫌気がさしていて穏やかな性格になりたいと願っているとする。でも、今日もまた些細なことで怒ってしまって自己嫌悪に陥った。なんとか気持ちを立て直して、「よし、明日からは怒らないようにしよう」と誓う。
とても残念ながら、これまでに何度も立てては破ったはずの誓いだから、決して果たされる日が来ることはない。もちろん自分でもわかっていると思うけれど。そこでまた「ああ、自分はダメな人間だ」などと思ったりする。意思が弱い自分が悪いのだと責め、それにも飽きたら今度は「そんな弱い自分を受け入れることが大事だ」という考えにすがって、「そうだよね」なんて思って、束の間の慰めとしたりする。
おそらくは「誓う→自己嫌悪」の道筋が根本的に間違っている。誤った前提から生まれた結論をずっと繰り返しているだけなのだと思う。
というのも、怒らないようにすることは現実にはあり得ず、怒るか怒らないかのどちらかしかないからだ。不思議なことに想像の自分を思い描くと、怒らないようにする自分が実現できる気がする。
いつか達成されるはずの理想は、いまのあなたが「しないようにする」ことを破るたびに「どうしておまえはそんなこともできない」といった調子で反省を求め、嫌悪を募らせるように迫って来る。すると、それに向き合うことが誠実さだと思えてしまう。
そうして理想を実現できない自分を否定する言葉を磨き立て、非難のバリエーションをせっせと作り出すことに忙しくなる。知らないうちに否定の呪文を唱えていることに気づけないのだ。それを口にするたびに自分を意識的にコントロールすることが正しいのだと暗示をかけている。その目的はやはり「意識的に意識しないようにする」ことによってズレた時間を戻して合わせようとするところにあるはずだ。
意識が「ある」から「する」に変わった訳
「意識する」という日本語の表記をごく当たり前にしているし、口にするけれど、本来は意識(consciousness)は「ある(have)」もので「する(be)」ものではなかった。
戦前の文献を読むと、意識はその「存在」について大いに論じられていても、「する」ことにおいては、それほど論議の対象ではなかった。少なくともそういう印象を持っている。といっても、これは僕の関心がドイツ観念論だとか京都学派みたいな哲学の領域にあったせいかもしれない。
とは言え、なのか。だからこそなのか。ヨーロッパとは異なるアメリカ由来の哲学であるプラグマティズムとその一般化、俗説化である産業管理システムが日本にも大きな影響を与えたと知ったとき、僕の中で腑に落ちたことがある。それは何かというと、日本語において意識が「ある」から「する」へと変わった要因は、哲学の分野ではなく、産業構造の変革にあるんじゃないかということだ。
産業管理システムというのは、たとえば自動車メーカーのフォードが開発したフォード・システムやエンジニアのフレデリック・テイラーが開発した科学的管理法であるテイラー・システムのことだ。 ものすごく簡単にいうと、大量生産を可能にするための流れ作業とムダを省いた工程管理のためのマネジメントだ。
自動車を組み立てるのも各種の部品の取り付けを同時進行で行い、作業の品質を統一し、マルチスキルではなく一人が一つの作業を担当する単能工で行う。そうして作業の標準化と合理的組織を行う。こんなふうに書くとなんだか難しく感じるけれど、食品だろうが家電だろうが、僕らがいったん工場で働くとかコンビニで働くとかで、ごく当たり前に要求される考えであり、動き方だ。
こうした考えや動き方。たとえば工具をどの位置に揃えて、どういう手順で扱うことが最も合理的なのか?という発想は、人間の身体と心のあり方を決定づけていく。そうして熟練していくことが仕事の評価にもつながるので、身体と心がマネジメントされていくことを疑わないし、マネジメントが要求する言葉の体系を僕らは内面化し、ごく普通のものとして身につけていく。「意識して効率を上げるための工夫をする」とか「意識して仕事に取り組む」とか、職場の朝礼や業務報告だとか何気ない所作の中で無自覚のうちに意識して物事を行うことを、そうとは思わない形で受け入れていく。
発達障害という定義の変化
産業構造が与える変化というのは、僕らの生活とつながっていて、それだけに変化を自然のこととして受け取ってしまう。気づけば前の時代とまるで違う生活観を常識にしてしまっている。
以前、僕はある精神科医と対談したのだけれど、彼が言うには発達障害という言葉は1980年代までは運動機能に障害はないけれど、歩き方や走り方が変わっているだとか極端に不器用な状態を指して言われていた。それが1990年代以降、コミュニケーションの疎通がうまくいかないことを指して言われるようになった。
つまり実際に物を作ったりする産業から情報を扱う産業が主要な位置を占めるに至って、障害として取り扱う対象が変わった。前は障害ではなかったことが、そうとして数え上げられるようになったが、そうした移り変わりを滑らかに感じているので、僕らはそれが取り立てておかしいことだとは思わない。
もはやマネジメントの発想は仕事だけに収まっていない。会社帰りにジムへ行けば「ハムストリングを意識して」と言われ、多忙さに心が散漫になっていると思って、マインドフルネスな状態を経験したくてヨガのクラスへ行けば「呼吸を意識して」と言われ、精神を鍛えようと武道の道場へ行けば「無意識を意識して」と言われたりする。
無意識を意識したら無意識じゃないだろう?と思うのだけれど、それくらい意識化せずにはいられない身体と心のあり方に僕らはなっている。意識が意識的に心と身体を統合するときいったい何が起きるのだろう。

