失われた親指を求めて vol.7
時間と欲望と心
人は心を発見し、それを心と名付けた刹那、心と身体の分離を知ってしまった。未だ知る前と既に知った後とではきっと世界の捉え方はまるで違ったはずだ。いままで見たことのない、新たな景色が目に飛び込んで来たのではないかと思う。
たとえて言うなら、赤ちゃんがハイハイから立ち上がった瞬間だ。景色の激変に驚いた表情を見せると聞くけれど、それに匹敵する感動と茫然自失ないまぜの気持ちになったのではないだろうか。
そのときの体験を僕らはすっかり忘れてしまっている。立って歩くことは当たり前。日常とは直立二足歩行を前提条件にして営まれているから、立ち上がる前の自分の感性がどんなものであったかもよくわからなくなっている。心を知る前と後では、それに近いような隔たりがあるのだと思う。
犬が悲しんでいるように見えるけれど
人間以外の哺乳類も悲しみや苦しみを知っているような表情、身振りを示す。死者を悼むような振る舞いを見せもする。もちろん人間からすれば「そう見えるだけ」かもしれない。
だけど、犬がクーンと鼻を鳴らしたり、切ない表情を見せたりすると、やっぱり彼らも悲しみをわかっているのだなとどうしても思ってしまう。そこでつい彼らにも心があるのか?と問うてしまいがちになるけれど、その途端、「ある・ない」の答しか許されていない道を選ぶはめになってしまう。とてもつまらない。
そもそも彼らは言葉を持たないから心という概念がない。心を知らない。言葉がないのに言葉を前提とした捉え方で彼らを見て「心があるとかない」とか言うのは、とてもバカげたことだ。
だけど、言葉を介して物事を捉えることから離れられなくなってしまった人間は、それがナンセンスであっても、やっぱり彼らに心があるかないか気になって考えたりする。それもこれも人間に心があるからこその発想なのだろう。
その問い方がおかしいと知りつつ、僕も言葉を通して考えることをやめられない。犬を見ていて「悲しいんだな」と見えるような状態があったとして、それをもたらした何かを彼らは心と名付ける必要がないくらいには、心と身体が分かれていないんじゃないか。そんなふうに考えてしまう。
「これは悲しみだ」と名付けてしまえる以前の、原始的な悲しみ(そんなものがあるのかわからないけれど)があって、それは身体が傷ついて「痛い」と呻いてしまうのと分かれていない感覚が彼らの生きる世界だとすれば、心と身体を別のものにする必然性がない。
人間の場合、身体の内に特筆すべき何かが現象として生じて、自分から分かれた。浮いて際立つ感覚が芽生え、それを心と名付けたのだとしたら、心が生じた必然性はなんだろう。と言うか、いったい僕は何の話をしているんだっけか。
心が芽生えた種はどこにあるか
心と身体の不一致が起きると、困りごとが起きる。僕の場合だと、人前で声を出すことを抑えきれなくなったり、人の言葉を額面通り受け取ってコミュニケーションがうまくいかなかったりとか。声を出すのは、やりたいわけじゃないけれど、意に反してそうなってしまう。
前者については心が身体からはみ出てしまって、コントロールがどうしても不可能な状態だ。後者のコミュニケーションについて、相手の心がなんだかわからなくてモヤがかかって見える。
おもしろいのは一方は心が突出している感じで、そういう意味では心の存在がありありとしていて優位なんだけど、もう一方は意思の疎通がギクシャクすると、相手からはこちらに「心がない」ように見られるところだ。「心がない」と言われると傷つきもするので、ないわけじゃないのだろう。心がありすぎるのとなさすぎるのとで、ちょうどいいところに心がない。そんなものだから人一倍、心とは何かに関心がある。
そこで「僕は何の話をしているんだっけか」だ。僕は心と身体の不一致を長い間、ズレだと捉えてきた。
先だっての連載で「自分と自分とが噛み合ってないのだから、社会に受け入れられる自分に合わせるためにチューニングしていかなくては」と書いた。
でも、よくよく考えてみたら「人前で声を出すことを抑えきれない」ことの何が本当に問題になるんだろう。静かなカフェでいきなり隣の席の人が声を出したら、そりゃ驚くかもしれない。けれど、根源的に問題にされなくてはいけないことだろうか。
また「額面通り言葉を受け取ってコミュニケーションがうまくいかない」というのも、翻って言えば素直だということだけれど、じゃあどういう局面で問題になるかというと、人間を相手にした場合ではなかろうか。自然を相手にする仕事なり暮らしをしていたら、森の中で声を出しても顔をしかめる人はいないし、言葉でのコミュニケーションに頼れない環境なのだから全然問題にならないはずだ。
セネガルでは僕は生きやすいのか?
問題は社会との接点で起こる。となると「僕の心と身体が一致していない」のではなくて、「社会を生きる上で普通とされる感性を身につけていないために他者との関係性の折り合いがつかない」のではないか。
しかも「社会」というのは、特定の文化の色合いを反映しているから、別の文化背景がある社会ではうまくいくこともあり得るはずだ。
とは言え、仮に僕の振る舞いがセネガルの文化では取り立てて問題にならなかったとしても、セネガルで生まれ育った人が地元と折り合いつかないことだってあるだろうし、心と身体がまとまらないで困っている人だっているかもしれない。
人間はだいたい普遍的に心という現象があるとわかっているみたいだ。
(数年前にアマゾンで発見された部族がいるけれど、彼らが心を持っているかわからないにしても、ここでは概ね人間は心というものを持っていると言っておく)
心を知っているということは、心と身体が分かれている人間観を持っているということになるだろう。
自転車のハンドルから手を放してしまうことに始まった心と身体のズレがなんだか壮大な話になっているけれど、僕個人が体験していることは個人史でありつつ人間の体験である以上、たぶん全人類史につながっていることであるはずだ。だから自転車のハンドル手放し事件は人類の心と身体の問題でもあるのだ、と言っておく。
そこで極めて個人的な体験を通じて、心がなぜ生まれたのか問題について考えてみたい。
時間と欲望
5歳の時に僕は「だって心がそうさせるんだもん」と母親に抗議した。まだ幼いから「心とは何か」について詳しい説明はできなかったとしても、感覚として把握していたのだろう。では、まだ心を知らなかった頃はどうだったのだろう。その時代に思いを馳せても暗闇しか眼に映らず、何もないように見える。
けれど、見ようとするから見えないのかもしれない。ここで見るというのは、言語的に考えると言い換えてもいいだろう。暗闇で必要なのは見ることではなく、手探りで慎重に歩んでいくことだ。
だから僕も記憶にも残らない個人の歴史を探っていった。心の発生は言葉では明らかにできないけれど、その不鮮明さは、人間が心を持つようになる黎明期の景色にも似ているのではないか。
ハンドルから手を放し転倒するという出来事で僕は心を切実に知った。あのとき僕は「反復」という時間の巡り方から出られなかった。と同時に「手を放さなくてはならない」という疼きにも似た求めがあった。これを欲望と呼ぶには抵抗があるのだが、いずれにせよ、ここから類推されるのは、心の発生には時間と欲望が深く関わっているのではないだろうか?ということだ。
赤ん坊の頃は無時間を生きていたと思う。お腹が空いて泣いて乳を与えられ満たされた。さっきといまは違うことは言語としてではなく「把握」していただろう。このわかり方を「身体で理解していた」としてしまうと、それはもう心と身体が分かれた後の世界での認識された出来事になってしまう。極力、そうではないということを言いたいがために「把握」と書いた。
把握とはおもしろい語だ。把と握はそれぞれ「つかむ・にぎる」を意味している。認識が頭脳の働きとすれば、把握は行いだ。手に取って重さがわかる。これなどは把握だ。何キロあるといった数値でわかる理解の仕方ではない。つかんでにぎるという行為の過程でわかる。何がわかるかと言えば、その人にとって軽さ重さだ。言葉で理解する以前に、人はそういうわかり方を長らくしてきたのだろうということは、赤ん坊がなんでも手にとったり口に入れたりしているのを見ると何となくわかる。
心に人の業の始まりを見る
話を戻すと赤ん坊の頃は無時間を生きていたけれど、さっきといまの違い。つまり時の流れは理解していた。これはおそらく、人の原始的な把握と共通しているんじゃないか。
時と時間は異なる。古代の人も朝が夕に移ろい、月が満ち欠け、川が流れ、草木が繁茂するさまに時の流れを感じはしていた。それはいまとさっきの違いの把握に止まっていたのではないか。
しかし、月の満ち欠け、潮の満ち引きに法則を見出し、時のめぐりを発見したとき、時間という概念を手に入れた。さっきといまの違いという素朴な世界から、過去に行ったことが現在の結果を生み出している。あれをすればこれがもたらされる。これをすれば未来に利が得られる。難が避けられる。そうして予測ができるようになると同時に別の知識を得る。人間の業を身を以て体現するようになる。
「こうすればこうなることがわかっているのに、いますぐそれがかなわない」
「あんなことをしなければ、こうはならなかったはずなのに、どうしてしてしまったのか」
現実に生きているのは、「いまここ」なのに、未来と過去をタイムリープし始める。この時間をまたごうとする原動力は欲望にあるのではないか。
赤ん坊はきっと「甘いものは別腹」と言ってのける世界をまだ生きていない。腹が空いて泣いて、乳を与えられたら必要なだけ飲む。満ち足りることを知っている。まだ満足という言葉は知らなくても、その状態を知っている。
だが、いつしか僕らは食欲という欲を満たすことに止まっていられなくなる。欲望の時代が訪れる。自分のものより他の人が食べているものが美味しそうに見えるから欲しくなってしまう。
おいしいものを食べているにもかかわらず、「今度はもっと美味しいものを食べよう」などと考えてしまう。欲ではなく、欲望を満たすことを目指すようになる。ここにも時間が関わっている。「いまここ」ではない出来事を望み、それを手に入れようとする。満腹になっても飢餓感がある。
心というものは「いまここ」にいられなくなった、いわば時間を跳躍しようという試みが生み出した現象なのかもしれない。

